今回は寝太郎さんの話題です。
寝太郎さんのブログに端を発し、ミニマリズムによる文化比較論や人生観にも言及しています。
寝太郎ブログ
寝太郎さんは本名(高村友也)で出している著書が売れていますが、影響を受けて同様の生き方を実践する人が近年増えています。
こうしたことの背景には、その人たちの多くが寝太郎さんやソローなどの特定の本に影響されたこと以外にも、ブログやSNSをやることで、ライプニッツのモナドのように相互に感化されていくようになったことも関係しているのではないでしょうか。
ところで、寝太郎さんのブログについて気になっていることがあります。
そちらは、大手の掲示板にも関連スレッド(『寝太郎』で検索すると出てくる)ができています。
実は、僕もたまにウォッチしているのですけど、最近否定的なコメントや不自然なコメントが目立ってネット社会から注視されています。
だが、小屋暮らしは寝太郎さんの著書である『スモールハウス』で紹介されていたように、諸外国では実践している人が多く、多様性に理解のある人は共感しやすいはずです。
もっとも、日本の風土に入ると小屋暮らしをしている人の場合、自分の内面的な声に忠実であるがゆえに、孤高というかカッティングエッジな印象を与える可能性はあります。
ミニマリズムと統治システム
公定ナショナリズム(統治を行うナショナリズム)の熱心な信奉者や、寝太郎さんが土地を所有されているような地方の地元民からはおもしろく思われない場合もあるのではないでしょうか。
なぜかというと、高齢者が多い地方でミニマリストが小屋暮らしをする場合、村社会の文化拘束性を完全に切り離して暮らすことはまだ難しい場合があるからです。
また、寝太郎さんのようにしばらく外国で暮らしたり最高学府で教育を受けたりして視野が広く、発想が柔軟な場合、自分たちのテリトリーをおびやかすのではないか、と一時的に誤解されることはあるかもしれません。
けれども、個人の思想信条に干渉し、否定するのというのはやっぱりいけません。
加えて、諸外国の社会通念から考えてみても、個人のプライベートに干渉して否定するというのは基本的に好ましいことではありません。
そもそも、寝太郎さんはあっさりしていて嫉妬深くも高圧的でもないので、本来延々と非難されるようなタイプではありません。彼は他の人の個人的な権利を尊重していますし、言葉遣いから人柄の良さも伝わってきます。
そうはいっても、自分の内面的な声に忠実であるがゆえに好き嫌いが分れるところはあるでしょう。
ミニマリズムと文化拘束性
もし、社会が提供するトレンドの娯楽にさほど関心が持てないなら、寝太郎さんが示すように動植物の生態観察や読書や夜空を眺めることに幸福を見出すというのも良いのではないでしょうか。
なぜかというと、人間はいつかは死んでしまうし、会社や学校や家庭もいつかは滅びるのは必定で、このように普遍的な事実を意識してみると、本当に必要なことってやっぱり多くないですからね。
それに、人間は基本的に生まれてくるときは独りですし、死ぬときも独りです。こうしたことは鶴見済さんの本を読んでいるときにも、認識させられることが多かったですね。
そもそも、地球上の生き物は海や硫化水素から自然に生まれてきたわけですが、人間が生きることも死ぬこともこうした自然のプロセスとしてパラフレーズしてみると、そこに特別な意味なんてあるわけないでしょ。
それから、汎用性のある考え方ですが、僕は生と死のプロセスを直線的に意識することによって文化拘束性の影響力が、ガクンと低下するということに気づきました。
これはどういうことかというと、先述したように思考を重ねると価値観がシンプルになり、インスタントな娯楽に意識が向きにくくなったり、トラブルに巻き込まれにくくなったりすることで、気楽になるからです。
もっとも、毎日長い時間、生と死について考えすぎるというのも良くないですけどね。でも注意していないと、人生は海辺を駆け抜けるようにあっという間にすぎていきますよね。
誤解が生じないようにすこし補足します。
こちらで説明した、形あるものはいつかは滅びるといったストイックな死生観は、生きにくさを抱えた人がこまかいことを意識しないことで生きやすくなるために有効です。
時として厭世的な印象を抱かれることはあるかもしれませんが、その片や、すべてのことには終わりがあるからこそいまの環境を大切にしようと考えることもできるからです。
ミニマリズムへの誤解
こういうことをいうと、人によってはネガティブな波動を感じ、社会体制や多数派の人を軽視していると考える人もいるかもしれません。
というのも、さきに説明したようなミニマリズム型の死生観に否定的な場合、多数派であることを主張しながら『自分たちが軽視』されているといった前提が散見されることがあるからです。
これにはミニマリズム型の死生観の場合、諸外国では一般的で汎用性が高いため、そうした前提がないと否定しにくいというのもあるのでしょう。残念ながら僕が個人的に敬意を払っている人にもそうした話をする人はいます。
はたまたミニマリストの場合、多くの人たちが経験するべき過程をショートカットすることが絶対に正しいと信じているのではないか、と誤解される可能性があります。
ミニマリズムと人生観
さりとて多くの場合、そこまで否定的ではありません。
現にミニマリズムに影響されてミニマリスト傾向がある僕の場合も、地道に社会活動に取り組むことも価値のあることだと考えています。
それに日本社会は、地域コミュニティへの参加者や人生経験豊富な人たちが社会の基盤となってささえてきました。
ですから、多数派や先人たちの高尚な気持ちを蔑ろにする気は毛頭ないですし、そこまでひねくれているわけでもありません。
そうした姿勢は他のミニマリストの場合も、おおむね同様のはずです。
それにしても、さまざまなミニマリストを見てきましたが、ミニマリストの場合はADHDやHSPや精神疾患などのハンディがある傾向があり、世の中に生きにくさを感じている場合もあります。
また、ミニマリストには自分ではどうしようもない事情によって一般的なレースからエスケイプせざるをえなくなった人もいます。けれどもこうした場合は、環境に恵まれすぎている人には理解されにくい傾向があります。
なお、僕の場合は、自分と考え方の異なる人を短絡的に否定する価値観にも、安易にドロップアウトしてなんでもかんでも強引にニヒリズムに結びつけてしまうような厭世的な価値観にも賛同しているわけではありません。
棲み分け
そうはいっても、人にはそれぞれ事情もあるので価値観による棲み分けはある程度しておいたほうが無難だとは思っています。
こういうことをいうと、『しかしそうしたことが認められやすいのは欧州や米国でのことで、儒教圏の国には合わないのではないか?』といった意見もあるかもしれません。
ところが、たとえば遺伝子や文化的にもっとも日本と親和性がある韓国の場合。
韓国では日本よりも儒教の影響が高いですけど、むしろ個々人のスタイルが尊重される傾向があります。
というのも、昔バックパッカーをやっていて各地を放浪していましたが、すこしの間韓国人の二人組みの若者と行動していたことがあって、そのときの経験から考えてもそう感じます。
目下、このように他国の事情もネットコンテンツを通して正確に分かるようになりました。そのため価値観が多様化したことへの理解は社会全体として深まっています。
そうした流れが主流になってきたなら、自分と価値観の合わない人がいても流れに逆らって変えようとするのではなく、ある程度自分の価値観を合わせていくというのも合理的ではないでしょうか。
参考書籍:自作の小屋で暮らそう: Bライフの愉しみ (ちくま文庫)&スモールハウス (ちくま文庫)