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村社会と集合知

最近、知人たちから空気を読まなくてはいけないことによる生き難さは、郊外や農村部に多いという意見を聞きました。

人間関係が濃厚な社会では、出身地や文化的背景や血縁の異なるひとの間で、多少の誤解が生じることはあります。

日本では、住んでいる場所を自分が参加するべき共同体と考えているひとが多い時代もありましたが、現代は都市部に人口が集中し、住んでいる場所は基本的に寝起きしたり、生活する為の場所だという考え方が一般的になりました。

世代によって、その割合は多少異なりますが、一般常識で考えれば他のひとの基本的な権利を侵害しない限り、どのような価値観で生きようとそのひとの自由です。

そもそも、高信頼社会では基本的なこととされていますが、在住している地域を自分が参加すべきコミュニティと考えるか、寝起きや日常生活をする私的な場所だと考えるかはひとによって異なりますが、個々人が自分で決めるべきことです。


村社会の場合は、個人や少数派が合理的であっても村のなかで主流ではない先駆的な意見を主張すれば『内』ではなく『外』のひととして考えられる場合があります。

もちろん、村社会には空気に選択をゆだねていれば、積極的な村民同士の距離が近づき、不足点を補い合い易くなるなど良い面もあります。農村部を中心に昭和の終わりごろまでご近所さんと醤油や味噌を貸し借りする習慣のあるところもあったと聞いたことがあります。

しかし、村社会では、実は個人や少数派の価値観であっても村全体の方針ということにできれば、矛盾や問題が生じても『内』の意見にしてしまうことがありました。

要は、個人や少数派の意見を村全体の意見として主張した場合です。その場合、能力が特別高くなくても、好奇心旺盛で熱意があり、自分を過大評価し易いひとが村の空気を利用する傾向があります。

ある程度の年齢になれば、そういったグループの論理や状況も理解し易いと思います。しかし、論理連関や論理構造よりも情緒を優先させることで、村側に問題が生じる場合があります。

情緒を優先させようとすることで、複雑な事情が生じ、システムの歯車がずれて噛み合わなくなったり、磁場が乱れたりすれば尚更です。


そもそも、個人や少数派が合理的な意見を主張してもそれが認められない場合、また個人や少数派の意見を村全体の意見として主張した場合、村全体の知性が高くなっているのか、と分析するとそうではありません。

集合知や全体の知性という概念について、おもしろい本がありますので紹介しておきます。ドワンゴ川上量生さんが岩波書店から出版した『鈴木さんにも分かるネットの未来』です。

ネット社会やネット世論のことも、明快に解説されていますので興味のあるひとは参考にしてみてください。


参考書籍
www.amazon.co.jp


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