精神的遊牧民

北海道の海辺に輝く朝焼けのように清らかなブログ

芸術と教養

数ある職業のなかでも、人類最古の職業やそれに準じる職業というものは、社会のプリミティブな需要を満たしているという意味で尊いですが、芸術家とその作品は社会の文化を支えたり
、精神的支柱になっているという意味で尊いと僕は考えています。

建築家は設計図を与え、大工は建物を与え、農民は農作物を与え、漁師は魚を与え、宗教家は救いや希望を与えます。多少でも芸術家やその素質があるひとの場合は作品や物語を通して重要なことを示したり、シグナルを送ることがあります。

といっても、僕の場合は、極東の島国で世界の波風が穏やかであることを願っている一般市民ですし、これは憶測です。

先述したひとたちの場合は、過去の芸術作品や物語を眺めていても生き延びる為に必要な情報が自然に浮かび上がることがあるようです。

また、未来に生起する可能性のあることを追体験して回避や解決や緩和に繋げることもあるようですが、価値ある情報を読み解くにはある程度の教養も必要です。

教養とは、一般的には、ある程度の知識や学問を学ぶことで得られる物事への理解力を意味しています。また、さまざまなひとや社会と関わったり、さまざまな場所に住むことで習得できる、物事を比較して情報を分析したり、展開を予測して問題を回避・解決・緩和させる能力のことも意味します。

そして、教養を深めるということは、知性や世界観にはさまざまな尺度があることを学ぶことも意味します。このときに視野狭窄や思考停止を起こさないように他の考え方との差異を学ぶことや、分かり易くて巨大な思想に安易に絡め取られたり、吸い込まれて自分を見失わないように注意することも必要です。

下方の渦状の画像は、青木ヶ原(Aokigahara)の樹海。このときの樹海では雨脚が弱まり、マリアージュな木漏れ日が降り注ぎ、樹木の葉の匂いがたちこめていました。

青木ヶ原樹海で人間の死体や分解される前の遺骨を見掛けたことはありませんが、亡くなられたひとの遺品と思われる衣服や靴が散乱しているのを見掛けたことがあります。

定住民である現在の僕は、顔を見たことのない死者の遺品と思われる物や青木ヶ原樹海の画像を眺めると、遺品を身に付けていたひとのかけがえのない日常を追憶し、眩暈を催すことがあります。物にもいのちが宿ることがあるということなのでしょうか。

青木ヶ原樹海では、人間の死体も獣に損なわれることで分解され、かつては人体だったものも乱雑に散らばっています。そして地面は筆舌に尽くし難い時間を経て積み重なった、生き物の死骸を含む堆積物と草花で隈なく埋め尽くされています。

樹海の地下には、人知れず散って深い眠りのなかへと降りていった、数え切れないほどの死者の霊魂が横たわっていますが、辺りには沈黙の粒子が渦巻いていました。

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といっても、僕が青木ヶ原樹海に行ったときに自殺を企図する意図はありませんでした。また本格的な自殺未遂はしばらくしていませんし、当分、自殺する予定はありません。

最近は、とりあえず2022年まで生きる予定でいます。ちなみに樹海の原生林のなかでは、そのときの気分でビールを飲んだり、シャドーボクシングのようなことをしたりもしていました。

話を戻します。柔軟ではない観点や思考は、本来、物事が重層的・多元的に構成・機能しているということを見落とす可能性がありますし、物事には黒か白かではジャッジできないことも多々あります。世の中はそんなに単純じゃないし、中間には灰色も存在するからです。

さらに言えば、灰色のなかには黒に近い灰色や白に近い灰色も存在しますし、宗教や思想に関することのようにひとによって映る色が極端に異なる場合もあります。

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