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精神的遊牧民

北海道の海辺に輝く朝焼けのように清らかなブログ

書籍『夏の滴』

Ghettoは、今年で13年目を迎え、ブログも書きはじめてから長い年月が経ちました。この辺りで集大成となるような記事を書こうと考えていましたけど、今回の記事がそうです。

僕自身は、鬱病傾向も関係していますけど、相変わらずスッゴいわがままで気まぐれです。しかし、この記事を書いている現在は、けっこう気分が乗っています。

僕は、気分が乗っているときでないと長文を書きませんし、やっぱりこういうことは気分の乗っているときにすべきですよね。ブログにアップする文章は、書きたいときに一気に書いて細かい作業は後回しにした方が効率が良いということにも最近になって気付きました。

今回の記事に、最近アップした『人は解り合えないこともある』という記事の関連作としてもチョイスしたい本があります。以前から紹介したかったイカした作品というか、スゴい本(スゴ本)です。今回はそのスゴ本の書評が主です。

自分の経験に基づいた話や、社会問題の解説をしようかとも考えましたけど、あれこれ考えた結果、書評にすることになりました。

今後、新しい記事は事情があったり気が向かない限りしばらくアップしない予定です。後、最近アップした記事の校正作業をまだしていない状態です。後程細かいところを修正してnoteで実験販売することも検討しましたけど、しばらくはブログで無償公開することにします。

前文(?)が、長くなり過ぎるといけませんので解説に入りますね。本のタイトルは『夏の滴』で著者は桐生祐狩さんです。初版は角川書店から平成13年に出ていますけど、第8回日本ホラー小説の大賞長編賞受賞作とのことですから規模の大きな図書館には置いてある可能性があります。

本書は、失踪した友人を探し、読書という共通の趣味を持った小学生が上京する話が中心になっています。冒頭の方から一人称で表現されていることからも、著者自身の経験や観てきた世界が投影されていると考察することが出来ます。

しかし、クラスで起きているある登場人物に対するいじめや排除の描写が、僕は忘れることが出来ないのです。具体的には、本書の9頁(解説はハードカバー版になります)から登場する、八重垣潤という裏主人公のことがです。

僕自身は、少年期からどちらかというと読書が好きで物思いに耽ったりしていることが多く、ロマンチストでした。そして一般的な読書家と同様に、自分と共通点のある小説の登場人物に自分を重ねては、その人物が抱えている問題を自分のこととして考える傾向がありました。

僕は、こういう風に物を考える読書家は多いのではないかな、と思うことがあります。僕自身も年齢を重ねるようになってからも、適度に客観性を維持しながらそのように思考して読書をすることがあるからです。

しかし、結局のところ、ムルソーやメルソーやラスコーリニコフや地下室に住む男の心理を完全に理解することは出来ませんでした。何というか、その人達は物事の理解が遅かったり頻繁に粗暴な言動を取る訳ではないですけど、重度の人格障害者や精神疾患である場合が多かったですから。

そういったカテゴリの人達は、ネットの普及に伴いネット上の掲示板やブログやSNSでも見受けられます。しかし、書いた文章などを読んでいても総じて視野が狭いというか視座が低く視点が不足しています。

難解な概念や論理を用いている場合でも客観性に乏しく、特定の方向に偏向し過ぎていて、物事の両面性を理解していないという特徴がありますので解り易いですけどね。

例えばですね。こちらのように微妙なコンテンツでも、書いた文章を読んでいただくと、専門的な物書きと視点が重なっていることがあるといった印象を受けることはあるかもしれません。

記事で扱っている主題によっては、時々意識して偏向した観方をしたりユニークな視点から話をすることはありますけど、総じてそんなに病的な感じはしないと思います。指摘しているのはそういうことです。

しかし、先述していた小説の主人公達は、あちら側の人達です。ただ、ラスコーリニコフに関しては良心の呵責や葛藤と解釈出来る描写や、彼に寄り添うソーニャとの関係などに凡庸さと近親感を感じた方もいたかもしれません。基本的には、普通っぽくて誠実な面もあるのですけど、時々壊れていたりやることなすこと大げさなところがあったりするそういう人物です。

善悪について考えさせられるとき、ラスコーリニコフのことを思い出す読書家は多いと思いますけど、ドストエフスキー作品の登場人物達の内面の深さや葛藤に多くの読書家が引き寄せられるのは、著者自身一度死刑判決を受けてから恩赦によって免れたという極めて特殊な体験も関係しているのだと思います。

ちなみに、先述した他の小説の主人公達に関しては、普通の人が完全にその心理を理解することは難しいでしょう。社会学者の宮台真司さんの言っていた“脱社会的な存在”です。ましてや普通の人には『太陽が眩しかった』という理由で大罪を犯す人間の心理なんて解る訳ありません。もし解る人がいたとしたら怖過ぎます・・・・。

とはいえ、世の中は広いですからあちら側とこちら側を行ったりきたりする、特殊というか、不思議な人物くらいなら時々はいるかもしれませんけど。

さて、本書のガイドに戻りますね。主人公である藤山真介のクラスには、車椅子の徳田という少年がいます。その子を支えているクラスの仲間達の日常を地元の放送局のクルーがドキュメンタリーにし、小学校に定期的に来訪していました。放送された番組は『とっきーと3組のなかまたち』と言うタイトルで人気になっているそうです。

一般的な読書家の視点でざっくり考察するならば、退屈で凡庸、まさしく平坦な日常。しかし、前半はそうとしか表現出来ない牧歌的な流れになっています。けれども、注意して読んでいると14頁の4行目からも本書の裏主人公である八重垣潤が、常識を建前に非常識な正義を振りかざす子供の一団に袋叩きにされ、損なわれていく描写が垣間見えます。

生徒が持ち物に名前を書くことを推奨したり、体操着を入れる袋を指定したり、特に義務ではないことについて常識化していき、そのように振舞わない相手を非難したり排除していく描写もあります。

このような仕組みは一昔前の日本では目立っていましたけど、自殺や精神疾患や人口減少といった社会問題や人口減少の要因になっています。ただ、押し付けている側の人格まで一方的に否定する気はないですけど、このような場合に問題なのは善かれと思っているところなんですよね。

物語の中には、リアルな性や暴力描写も巧みに織り込まれています。山奥で江上という美人レポーターが自分の上着を引き千切って親族の男性を誘惑するところなどは、正調ポルノ官能小説の様相を呈しています。また、暴徒さながらに悪さをする子供達の描写は精神的にけっこうキています。これは平坦な日常の裏側に潜む悪意と暴力性の隠喩です。

本書は、大衆受けするように無難に設計されたアートとは間逆の作品ですし、人間社会の悪意(常識や正義を建前にした)とそこからの救済の不可能性に抗う精神の物語と言い換えることが出来ます。

本書は、難解な哲学書などではないですけど、複雑な心の仕組みや概念にインスタントにでも接近することが出来るという意味でも価値があります。個人的には、生き難さを感じていたり、自殺のサイトやメンタルサイトに来ていたり、そういったサイトの関係者であったり、このブログを読んでいる人にはおすすめしたい本かな。

甘ったるくて、華やかでアート性よりも大量生産と大量消費を目的にしたポピュラーなアートには興味がなく、凄みのあるアートに触れたい方にもです。

僕は、最終頁の主人公である藤山真介の『(中略)僕たちはまったくわかり合っていなかったんだね』という台詞も印象に残っています。これには若干の戸惑いと不可解さを感じさせられました。

しかし、音楽や映画の場合もそうであるように、どこか引っかかるところがあって考えさせられたり、不可解な謎を残すこと。これも優れたアートであることの証左です。

初めて本書を読んだときは、哲学を学ぶ悩み多き学生でした。その時期はいろいろな人物達に義侠心と人情に付け込まれて泣き付かれたり、お金をせびられたりしていろいろと大変でした。ジレンマと生き難さを感じていた時期でしたけど、僕の思考や思想を醸成し、新たな視点や価値観を獲得する為にはとても必要な本でした。

現実には、存在さえしていない文芸作品中のある少女の存在。そして、損なわれ、ひっそりと暗闇の奥深くに降りていった彼女の果てしなく深い孤独と哀しみが、僕を変えて救ってくれました。

14年近く経った現在も、忘れることの出来ない一冊になっています。これからもそうなることでしょう。


参考書籍
www.amazon.co.jp

関連サイト
著者インタビュー:桐生祐狩先生

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