精神的遊牧民

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アートと文脈と現実

今回の記事は、アートと文脈と現実に関してです。実はこの後にアップする予定の記事中に書いていたのですけど、話が長くなりまして、一つの記事として独立させなければ噛み砕いて咀嚼し難い話になりました。

その為、くだんの記事から取り切りで扱って先にアップする運びになりました。内容は前回の『人は解り合えない』という記事で扱った、コミュニケーションの共通文法の話とも関連しています。

前回の話ではないですけど、コミュニケーションにはその前提として共通文法が必要だという意味でも現実の世界ではあまりアートの話はしない方がいいかもしれません。こちらの場合は共通文法というより“文脈”という表現にした方が適切ですね。

何を言いたいのかというと、例えば文学の場合なら『ライ麦畑でつかまえて』を読んだ流れでサリンジャー作品を通読する程度なら一般的な読書家や本好きとも共通する文脈を持つということになるでしょう。

しかし、フィッツジェラルドの『グレイト・ギャツビー』が愛読書になっている場合などは注意しなければいけないことがあるということです。特にアート性が高かったりアナーキーな作品の場合はそうです。

ガルシア・マルケスの『百年の孤独』やマリオ・バルガス=リョサの『緑の家』が愛読書になっている場合などもそうです。こちらの二作は、南米文学の名作とされている作品ではありますけど、気を付けなければならないのは、特定の人種にしか通用しない文脈を持つことになっているということです。

特に、マリオ・バルガス=リョサは、ペルーの独裁体制を経験したこともあって、数年前の東京公演では『権力の道具として暴力が使われることに嫌悪感を感じ、作品の主題にしている』と言及してたそうです。このような場合は、作家の思想と読者の思想に共通点が見られることもあります。

変な言い方かもしれませんけど、そういった作家の作品になると、音楽家が作曲をするときに音楽理論を修得していなければならないのと同様に、特定のメソッドを修得した人でないと意味が解らない文脈が多々あったりします。

また、他のカテゴリのアートでもそうですけど、その作品に遺伝している情報や隠喩の解読に、前提となる技術が求められる場合、キャッチする側にも条件が必要になるという、そういう話です。

後、特に単純作業のパートやブルーカラーの仕事をしていたり、周囲の人間が物事の両面を観る習慣がない場合などは、そうしたアートや文学的な話題は避けた方がいいです。

現実は、文学の世界程合理的ではない面もありますし、そのことを考慮しないでアートや文学的な世界に接近し過ぎると、現実が自分に追いつかないのか自分が現実に追いつかないのか、よく解らなくなったり奇妙な現象が起きたりして混乱すると思います。ですからそのような場合は定期的にこちら側に引き返してくる精神的な作業が不可欠です。

過去に、文学だとか哲学だとか内省的な学問を学んでいたり、専門的な技術が必要な趣味を持っている場合なども、そのことを質問された場合は適当にはぐらかすくらいがいいかもしれません。『あれはいいもんだて』といった具合にです。


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