精神的遊牧民

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人は解り合えないこともある

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今回のテキストは、以前紹介したことのあるジェリー・ミンチントンの『うまくいっている人の考え方(完全版)』と所有しているニューライフ・ミニストリーズのコンサイスバイブルの詩篇をさっと読み返して書きました。バイブルは、あらゆる宗教の教義と教書に影響を与えたり、礎になっているとさえ言われています。

こちらのコンサイスバイブルは、ビギナー向けで話し言葉で書かれていますけど、キリスト教関連の書籍の中で僕が最も感銘を受けた一冊です。

但し、コンサイスバイブルですから新約の物語がすべて収録されている訳ではなく、象徴的な話が収録されています。バイブルは改訳や共同訳など多種類のものが様々なところから出ていますけど、一般の人には読み難く敷居が高いのも事実です。通読しようとして、挫折したことのある人もおられるのではないでしょうか。

そうした場合でも、こちらのコンサイスバイブルは読み易いです。また、シンプルですけど、日本語がとても美しいのが特徴です。もう故人になられましたけど、通読していてキリスト者で作家の小川国夫さんの文章とも重なっているところがあると感じたこともありました。

ちなみに、こちらのコンサイスバイブルは、以前都内を歩いていた時、路上で配布していた外国人の女性からいただいたのですけど、今回の記事と文章にも世界観が投影されています。また、そのように解釈してくださるところがあれば嬉しいです。


人は解り合えないこともある

人は解り合えないこともある、というのは僕が他人とコミュニケーションを図る上で、前提にしていることです。このような説明の仕方だと、よく解らないと思いますので詳述していきますね。

例えば、思想信条が正反対の価値観の持ち主とその話をしても、多くの場合、さっぱり話が噛み合いませんよね。僕が申し上げたいのはコミュニケーションを図る際、お互いにその前提として、人は解り合えない、というと大げさですけど、人は解り合えないこともある、という共通の認識や文法があることの必要についてです。

極端だと受け取られる方もいらっしゃるかもしれませんけど、人間関係のほとんどのトラブルは、コミュニケーションを図る際、人は解り合える、という価値観に起因しています。

とはいえ、先人達の知恵にささえられた助言をしても、高慢で不寛容な人からは警戒されたり憎まれるでしょうし、知恵のある寛容な人なら愛と信頼を感じてくれるでしょう。

憎悪は、つまずきやトラブルの引き金になりますけど、愛と信頼は間違いを隈無く覆い尽くし、いやしてくれます。


思想と善悪

宗教や政治の場合もそうですけど、ある視点からある教義を観るととても正しく、別の視点から観ると正しさを証明出来たのと同じくらい間違いが混在していることがあります(何を言いたいのか理解不能?)。

そういう意味では、キリスト教イスラム教や仏教といった三大宗教を比較し、善悪や優劣を競ったり、論じ合うことは結局のところ、ジャンケンを繰り返しているのと仕組み的には大差ありません(何を言いたいのか理解不能?)。

これは、短気で勇ましい気質が、同時に臆病で思慮が浅い気質でもあるといったこととも意味は近いです。あ〜、日本語で適切な単語が出てきませんけど、敢えてあげるなら両面価値といった概念です。英語ならアンビバレンツかな(何を言いたいのか少しは理解可能かな?)。

一般的な宗教の場合、善悪の二頂対立のようにどちらかが正しくて間違っているということはありませんので、こちらでも宗論や水掛け論をする気はございません。

例えば、宗教の場合なら、キリスト教徒はキリスト教徒、イスラム教徒はイスラム教徒、仏教徒仏教徒として長い時間思索を繰り返した結果、ある宗教を選択している筈でしょう。生まれた時から選択の自由のない場合を除いてですけど。

政治的スタイルの場合なら、右翼は右翼、左翼は左翼、保守は保守、リベラルはリベラルとして、長い時間思索を繰り返した結果、そうなっていく筈でしょう。

ですから、そんなに簡単に人間が解り合えるなんていうことはありません。しかし、トラブルになるのは先述したように人は解り合えないこともある、という前提を理解していない場合です。


共通文法の必要

思想関係のトラブルは、ある思想の原理主義者同士の話が噛み合わなくなった時に、ある視点から観ると正しいことを大声で張り合うことで起きると一般的には認識されていると思います。宗教の場合は典型的な宗論ですけど、大雑把にはこの解釈でも不適切ではないと思います。

しかし、厳密にはそうではなく、前提として人は解り合えないこともある、という前提を理解していないからです。齟齬をきたす可能性のある話題になりそうになっても、人は解り合えないこともある、という前提があればトラブルになりません。

ある思想に執着し過ぎると、会話の原則を無視したり、頻繁に大声や感情論で持論を主張することが正しいと信じ込むことがあります。遠回しにでも持論を主張して、認められない場合に乱暴な態度を取ったり、都合の良くないことを隠蔽する為に事実を改ざんして言い触らす偽証人がトラブルを起こすこともあります。

しかし、こういったことは、内容や頻度にも寄ります。一時的にキレていたり、軽度の曲解に依拠している場合は誰にでも起こり得ますし、然程トラブルにはなりません。

また、ある思想に執着するあまり、不特定多数の人々が参加する社会の中でトラブルを起こす人種もいます。例えば、行政や民間企業の会議でもある議案について話し合う際、特定の共通点のある人達が自分達の利得を求める為、法外に示し合わせをしている場合などです。

勿論、こういうことは、個人や少数派の利得を損なわない些細な内容であれば然程問題はないのですけど、聞くところによるとそうではない場合もあるとのことです。

ちなみに、そういうときに特定の共通点に該当している人達をさりげなく観察しているとですね。老若男女問わずに会議に出る為に席を立つタイミングと終了後に起立するタイミングまで、示し合わせたかのように素早く一斉に行うといった特徴があるので他の人達にはすぐに解るとのことですけど・・・・。

それこそ、他の参加者達が『い、一体、何なんだ!?』といぶかるくらいにです。僕はそのような気になる話を耳にすると『な〜るほど、そういうことだったのね♪ フフフ』などと思うことがあります。

後、コミュ障である僕が、原理主義者やクレイジーでどこか変な人や壊れている人(あまり人のことは言えないですけど)とも一応話が出来るのは、人は解り合えないこともある、という前提があり、相手を変えようとしないからです。

人は解り合えないこともある、という前提がなかったり、他の人を変えようとして本来必要な共通文法を無視する人がいる限り、宗論や民族紛争や戦争や報復といった悲劇がなくなることはありません。

共通文法を理解しない人間とは、何とも不完全な存在でしょうか。


インテリジェンス・トーク

原理主義者やクレイジーでどこか変な人とかしばらく会っていない人とも、つい昨日会っていたかのような話をする方法があります。まず話に齟齬をきたす可能性のある話は控えること。共通点のある話をすることです。

必要なら、音楽・映画・ゲーム・スポーツ・本・場所・天気など、相手と同調性の高くなる共通の話題になるまで短時間にバシバシ変えていく。

予め、相手の趣味や興味のある話題が解っている場合でも、その時の気分などが関係して、その話が良い話になるとは限りません。

面白い人や興味のある人でも、相手が乗ってこなかったり、思い通りの反応がない場合はさっさと諦めること。意見や相談があった際に自分の裁量でどうにかできる場合は集団と相談したりせず相手の意思を尊重すること。物事の両面を観る視点を持つこと。立場の不安定な人や年下の人を集中的に非難しないこと。価値観を押し付けないこと。自分の恥で他人を責めないこと。個人的な好むと好まざるを善悪と勘違いしていないこと。複数の人の前で特定個人を非難しないこと。他人の個人的な権利を侵害しないように配慮すること。こういったことはとても重要です。イカした人や一流の人やしっかりした人の条件にもなっています。

もし、あなたが自我の拡大を図るあまり、一方的に個人のかけがえのない権利や私的領域を侵害すれば、時の洗礼を受けた後でもその意思は一巡し、あなたがたに襲い掛かることでしょう。

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参考書籍
http://www.amazon.co.jp/%E3%81%86%E3%81%BE%E3%81%8F%E3%81%84%E3%81%A3%E3%81%A6%E3%81%84%E3%82%8B%E4%BA%BA%E3%81%AE%E8%80%83%E3%81%88%E6%96%B9-%E5%AE%8C%E5%85%A8%E7%89%88-%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%B9%E3%82%AB%E3%83%B4%E3%82%A1%E3%83%BC%E6%90%BA%E6%9B%B8-%E3%82%B8%E3%82%A7%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%BB%E3%83%9F%E3%83%B3%E3%83%81%E3%83%B3%E3%83%88%E3%83%B3/dp/4799313282www.amazon.co.jp