精神的遊牧民

北海道の海辺に輝く朝焼けのように清らかなブログ

カップ麺と反知性主義

僕は時間や経済的に余裕がない時でも、家ではパスタや干し蕎麦や干し素麺を買ってきて調理することが多いです。多少余裕のある時は生麺を買ってきて調理することが多いです。

僕は幸せのハードルが低い人間ですから料理をしていたり、料理のことを考えている時はけっこう幸せですし、現世の悩みや雑事といった細かいことはどうでもよくなります。

所感ですけど、アウトローや公務員やニートや引きこもりや自殺のサイト管理人みたいな人でも料理をする人は意外と(?)落ち着いていてしっかりした印象がします。但し、この段落の『意外と』の前には『その割に』と付け加えた方が適切でしょうか。

難しい話になってきましたね・・・。さて、話を戻しますね。現実の僕自身はそんなにしっかりしてはいないですけど、花粉症で引きこもり気味の時でもけっこう料理をしていることがあります。

元々鬱病の傾向はありましたけど、本当にひどい時でないと家事はそんなに苦になりません。以前は、体調が思わしくないと掃除をすることに抵抗がありましたけど、10分間のリミットを設け、その間のみ徹底して作業に取り組むといった工夫をすることで改善されました。

これは極論ですけど、カップ麺を食べ過ぎるとつまらないことで興奮し易くなったり、思い込みが激しくなったりします。パチンコや悪口や不必要な仮想敵を探すようになるといった反知性的でサタンの気配がする悪癖と同様、まともな人間を駄目にしてしまいますし、本当に大切なこと(とりわけ必要な人や事象、人生やその内面的価値)には疎くなります。

そう、例えば事情があって傷付きながらひっそりと生きている人でも、人間の死亡率は100%であるという真理から視線を逸らさなければ幸福へ接続されるプロセスに成るということ。

資本主義を始めとした現世の社会の論理というもののほとんどは、人間にはいつかは死が訪れるという真理から視線を逸らさせることも目的に設計されているといったことです。